日中経協ジャーナル。

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□ よくある質問と答え

これまでの「日中関係アーカイブシリーズ」の 20記事 を、新しい号から順に表示しています。

  2014年5月号(通巻244号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第20回:「旭日大綬章」叙勲受章を振りかえって―その栄誉は中日友好事業に従事してきた両国のすべての方々に帰する2
陳錦華  中国企業連合会名誉会長
「旭日大綬章」は、日本政府が外国人に授ける最高位の勲章である。中国の勲章者は3人で、一人目は廖承志氏、1983年の受章当時は全国人民代表大会常務委員会副委員長、中日友好協会会長であった。二人目は谷牧氏で元中国国務院副総理、三人目が私で、第9期中国人民政治協商会議全国委員会(全国政協)副主席、中国企業連合会名誉会長である。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年12月号(通巻239号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第19回:日中友好のパイプを繋げ、次世代に未来を託す18
小野俊彦  日新製鋼株式会社社友
日中国交が回復したその翌年1973年9月に、元外務大臣の藤山愛一郎氏の手引きで日本青年社員友好訪中団(日本青年社員連合会主催、日中経済協会後援)に参加したことが、私の初めての訪中体験です。30~40代の経済界を代表する若者を中心に、約30人が3週間ほどかけて中国各地を訪問しました。ちょうど中国は四人組の頃でした。当時新日鐵の会長だった稲山嘉寛氏が日中経済協会の会長をされていましたので、私を含めた2人が新日鐵から参加しました。なぜ参加したかといいますと、当時私は鋼管販売部という部署でパイプの営業をやっていましたが、中国は今でいうシームレスパイプの世界市場の約3割を持っていたので、中国の市場を開拓することが必要だったのです。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年11月号(通巻238号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第18回:昭和電工と中国との長い付き合い―肥料貿易と石油化学での協力16
大橋光夫  日中経済協会副会長、昭和電工株式会社相談役
昭和電工における中国との歴史を紐解くと、戦後のビジネスは、中国における食料増産に寄与するため、化学肥料の輸出から始まりました。広州交易会での商談にも早くから参加していました。私の三代前の社長の鈴木治雄さんから聞いた話ですが、当時は文革の最中で、香港から広州へは、深圳河の手前で汽車を降り、それから徒歩で深圳に渡って入国するしかなかった。肥料商談は中国の公司からいつお呼びがかかるか分からず、一週間くらい留め置かれて、その間に「読め」と言われて毛沢東語録を渡されたり、ホテルの窓を開けると外では大勢の紅衛兵が騒いだり、革命歌を唱ったりしている、そういう時代だったそうです。鈴木社長は、副社長時代の65年に日中化学肥料貿易交渉団の団長として何度も北京に行っており、LT貿易創設者である廖承志さんにもお会いしています。戦後の昭和電工の中国ビジネスは、まさにそこから始まっています。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年9月号(通巻236号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第17回:ものづくりで培った日中の絆を次世代へつなぐ14
豊田章一郎  日中投資促進機構会長、日中経済協会名誉顧問、トヨタ自動車名誉会長
私は1999年に日中投資促進機構の会長を拝命し、以来14年間、日本企業の中国での投資環境の改善と対中投資の促進に、微力を尽くしてまいりました。このたび、日中経済協会より、日中関係アーカイブとして、私の日中関係に関する思い出話をとのご依頼をいただきましたので、日中投資促進機構会長以前のお話も含めて、本文を寄稿させていただきます。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年8月号(通巻235号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第16回:LT、MTから日中経協へ―日中を紡いだ人たち14
嶋倉民生  愛知大学名誉教授
日中経済協会の設立は国交回復の年、1972年ですけれども、顧みるにLT、MT(MemorandumTrade日中覚書貿易)の流れと切っては考えられない。廖承志、高碕達之助の頭文字をとったLTメモというのは、日中が貿易や交流関係を積み上げて相互信頼を深め、国交回復につなげていこうという精神で62年に交わされたんですが、日中国交回復の実現まで10年かかりました。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年7月号(通巻234号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第15回:金融交流を通じた様々な思い出16
三木繁光  株式会社三菱東京UFJ銀行特別顧問、日中経済協会副会長
私が初めて中国に行ったのは1985年の秋です。私は銀行で中堅中小企業融資担当の部長をやっていて、有志の企業経営者12、3人と中国に行ったのが最初でした。その時の中国の印象は非常に強烈でした。北京から上海、広州、深圳、そして香港に行きましたが、まず北京に着いたらとにかく自転車が「うわー」と走っている、バスには鈴鳴り状に人が乗っている、停留所では大勢の人が群がって、来たバスに先を争って乗ろうという状況でした。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年6月号(通巻233号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第14回:日中学術交流の深化16
山田辰雄  慶應義塾大学名誉教授
日中関係には様々な問題がありますが、私は中国近代史の研究者として日中関係に携わってきました。その経験から言いますと、日中関係の中で深刻な対立を引き起こすのは、経済・文化よりも歴史認識・安全保障の問題です。日中双方の歴史認識が違うのは仕方のないことですが、お互いに違うということを認めながら、なおかつ、日中間の対話を可能にする道を見つけなければならず、それはお互いに非難、批判をしあうよりも創造的な学術活動だと私は思っています。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年5月号(通巻232号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第13回:電力開発を通じた日中友好の軌跡20
中垣喜彦  電源開発株式会社相談役、日中経済協会常任理事
私は1938年、九州の久留米で生まれ、生後間もなく両親とともに中国に渡り、山東省の淄川という町で約8年間子供時代を過ごしています。日中戦争の最中でしたが、子供の私にとっては楽しい幼年時代を過ごせました。しかし、45年8月15日を境に、状況は一変し、人民解放軍が町に迫ってきたというので、済南に避難しました。そこで半年間集団生活を送った後、日本軍の庇護もない中、徒歩で青島まで出ることになりました。当時既に国民党軍と共産党軍の内戦が激化しており、その中を冬に子供連れの日本人集団が青島を目指す旅はつらいものがありました。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年4月号(通巻231号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第12回:企業文化で日中を支える18
坂根正弘  株式会社小松製作所会長、日中経済協会副会長
コマツは中国と長いビジネスの歴史を持っていまして、最初は1956年に北京と上海で開催された日本見本市に出展することから始まっているんです。私の若い頃の記憶では、中国というのは共産党体制なので商談は国が行って、いっぺんにまとめて商談が取れるということが多かったように思います。不思議というか、中国にも考えがあったのかもしれませんが、我々が非常に苦しんでいる時とか、日本の景気が良くないといった時に、大きな商談があるということで、また中国から神風が吹いてきた、というようなことをよく言った覚えがあります。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年3月号(通巻230号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第11回:中国製鉄業の刻苦精励に思う26
古賀憲介  日中経済協会会賓、日新製鋼株式会社(元会長兼社長)、元新日本製鐵株式会社副社長
私の初めての訪中は1985年11月、上海宝山鋼鉄の第一期完工式の時なんです。その時私は中国担当ではなくて企画担当の専務だったと思いますが、会社でコーポレートプラニング、要するに宝山の経営システムをどうしたらいいでしょうとか、いろんなことで宝山の連中が勉強に来るんです。宝山は新日鐵の製鉄所のつもりでやれということで総力を挙げて取り組んでいたわけですから、一度現場を見たいと思って、お願いして随員としてついて行ったわけです。それが第1回なんです。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年2月号(通巻229号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第10回:響き合える中国28
西村英俊  西日本高速道路株式会社顧問、双日株式会社元特別顧問、日中経済協会元常任理事
私は1984年に初めて北京に行きました。主に化学プラントやエネルギー、ガスプラントなどの関係で訪中し、北京の中央政府に売り込みに行くというような仕事をしていました。その後、98年に北京に赴任しまして、2000年4月まで駐在しました。その時は中国本土に加えて香港というのが私の守備範囲でしたので全般を見ることになったのですが、今振り返ってみますと、当時は中国も色々な意味で工業化、地方の産業育成などに取り組んでいる頃で、郷鎮企業が盛んになったり、国営企業でも色々な分公司を作ったり、工場を作ったり、海外と合弁をやったりというような、非常に盛り上がった時代でした。 /// 続きは本誌ご参照

  2013年1月号(通巻228号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第9回:誠信之交隣18
根本二郎  日本郵船株式会社最高顧問、日中経済協会名誉顧問、日本経済団体連合会名誉会長
私の会社NYKと中国との関係では1875年頃、上海・大連線航路が開設されましたが、上海支店は当時我が社で最大規模の海外事務所でした。戦後、1955年頃から中国配船が開始されましたが、日中国交正常化の72年、当時の社長の菊地ミッションが三菱グループとしては最初に中国を訪問しているんです。私は27歳の頃に中国航路担当になり、張至遠さんという第一高等学校卒業、日本語ペラペラの海運局長や、当時船のクリアランスを扱っていた中国国際貿易促進委員会とも付き合いました。その後交通部、貿易部などいろいろな局面で交流をいたしまして、相互に留学生や研修員の交換もやりました。 /// 続きは本誌ご参照

  2012年12月号(通巻227号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第8回:中国研究の航跡と日本・中国32
小島麗逸  大東文化大学名誉教授
1960年にアジア経済研究所に入って中国経済をやり始めました。中国は60年4月から人民日報と紅旗以外には出版物を国外には出さなくなりました。アジア経済研究所は、岸信介さんが東南アジアとの関係をもっと緊密にやらなければいけないということで作られた研究所でしたが、入って中国研究をやろうとしたが新しい研究所で資料はほとんどない。それに当時は普通の人は中国には行けませんでした。 /// 続きは本誌ご参照

  2012年11月号(通巻226号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第7回:日中通商産業行政、経済交流の新潮流22
福川伸次  元通商産業事務次官、地球産業文化研究所顧問、高度技術社会推進協会顧問、日中経済協会評議員
私の中国との関わりは、1974年の日中絹交渉に始まります。当時、農林水産省が生糸の一元輸入を実施して原材料である生糸が高くなり、日本の絹織物業者が苦境に陥り、中国に秩序ある輸出を求めようという政治的な要請がありました。そこで、中国側との交渉を始めるというのが初めて中国を訪れるきっかけでした。当時、通産省の繊維雑貨局長が野口一郎さんで、覚書貿易事務所で中国に勤務をされた中国通でした。同局の通商課長が黒田真、私は繊維製品課長でした。 /// 続きは本誌ご参照

  2012年10月号(通巻225号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第6回:同舟の隣国として26
辻井喬  日本中国文化交流協会会長、元日中経済協会副会長
私が最初に中国に行ったのは、国交が回復した翌年の1973年、経団連が植村会長を団長にして初めて公式の代表団を派遣した時です。その時は30人くらいでしたか。私は一番若造で、なんか随員のような顔をしていたことを覚えています。 /// 続きは本誌ご参照

  2012年9月号(通巻224号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第5回:経済人の眼で見てきた日中協力の歩み24
今井敬  日中経済協会名誉顧問、新日本製鐵株式会社名誉会長
62年、高碕達之助さんが訪中して、中国側は廖承志さんが代表となり、両氏の頭文字をとって名付けられた「LT貿易」が北京で調印されました。私が中国を初めて訪れたのは、文化大革命の真最中の66年で、岡崎嘉平太さんを団長として、河合良一さん(小松製作所社長=当時)などと一緒にそのLT貿易交渉のために北京に参りました。岡崎さんは当時、全日空の社長でした。 /// 続きは本誌ご参照

  2012年8月号(通巻223号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第4回:日本と中国という二つの国―本当の豊かさの追求26
宮﨑勇  元経済企画庁長官、元大和総研理事長
日中経済知識交流会が始まってから、もう30年以上がたちます。一昨年北京で30周年をやりました。かなりの年数続いています。最初は双方が羽織袴を着たような感じで議論をしていましたけれども、それが打ち解けて、それこそ自由に議論するという形が出来上がってきました。最近の会議では、冒頭で自由に議論しましょうなどと言わなくても皆自由に議論するというようなことになっていまして、それだけ会議が成熟したというふうに思っています。 /// 続きは本誌ご参照

  2012年6月号(通巻221号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第3回:アジアの空をつなぐ30
大橋洋治  全日本空輸株式会社取締役会長
私が生まれたのは中国の東北部(旧満州)のジャムス(佳木斯)でした。実は6歳になるまでは比較的健康だったんですが、疎開するために着の身着のままで母と2カ月間さまよい歩いたんですね。それで2カ月間ほとんど無蓋車と歩行でハルピンまで来たんです。 /// 続きは本誌ご参照

  2012年5月号(通巻220号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第2回:日中環境交流の黎明24
藤村宏幸  荏原製作所社友
私が日中経済協会の環境委員会をやらせていただけることになりましたのは、1991年に当時の日中経協理事長の諸口昭一さんがおいでになって、日中経協の側から中国に、環境問題は非常に重要な問題であるので、技術交流会をやりませんかという申し入れに対して、中国サイドがぜひやってくださいということになったので、委員長を引き受けてほしいというのが最初の発端だったわけです。 /// 続きは本誌ご参照

  2012年4月号(通巻219号)

日中関係アーカイブシリーズ   日中関係―その時と私
第1回:私と中国のかかわり4
山岡建夫  JUKI株式会社最高顧問
JUKIは工業用ミシンを主に製造し、170ぐらいの国々に販売して、また電子部品搭載装置を作っている会社です。中国と仕事の関係が深いのですが、私個人ということでは、長くソ連地域の担当をしておりました。 /// 続きは本誌ご参照

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